冨士御室浅間神社
国の重要文化財となっている本殿(本宮)は、699年に藤原義忠公が富士山二合目へ奉斉しその歴史が始まった、富士山最古の社です。その後722年に雨屋が建立され、807年には坂上田村麿郷が蝦夷征伐の御礼として社殿を創建しました。958年には、礼拝儀祭を行いやすくするために現在の河口湖畔に里宮が建立されました。この里宮社は、富士河口湖町の重要文化財に指定されています。
もともと里宮のあるこの場所は、河口湖周辺の船津・小立・勝山・大嵐・鳴沢・長浜・大石地域、大原七郷の産土神でした。里宮への参道は南に向かって伸びており、二合目にある本宮の方向へ向かっています。里宮は明治21年(1888年)に起きた火災で消失しましたが、火災から15ヵ月で復旧しました。
富士河口湖町指定 重要文化財
冨士御室浅間神社 紹介動画
Panorama
富士山二合目に鎮座していた本殿は、富士山の噴火の影響で何度も炎上し、また自然条件に厳しい環境であったため腐敗も激しく進行しました。その都度、皇室や武田家をはじめとする有力な武将などにより再興が重ねられてきました。
現在の本殿はこの再興の歴史の中、1612年に徳川家の家臣で当時この地方の領主であった鳥居成次が造営したものです。造営後もさらに4回の改修が繰り返されました。
そして富士山二合目という厳しい自然環境にあった本宮本殿を永久保護を目的として、昭和48年(1973年)から昭和49年(1974年)にかけて解体され現在の地である里宮に移築されました。
この富士山二合目の場所には奥宮社が新たに建立されました。拝殿は当時のものを残していましたが、腐敗が進み現在は崩れた状態となっています。この場所は富士吉田市内にある、富士河口湖町の飛び地となっています。
冨士御室浅間神社本殿
国指定重要文化財
この神社は文武天皇の時代(699)藤原義忠公により、富士山に最初にまつられた神社と伝えられている。延暦十九年(800)貞観六年(864)富士山大噴火により社殿が炎上し、幾度か再興したが炎上を繰り返した。
現在の本殿は、慶長十七年(1612)時の領主鳥居土佐守成次公により富士山二合目に造営されたもので、構造は一間社入母屋造り、屋根は(当時)檜皮葺、正面は軒唐破風付向拝を設け、正側面三方には高欄付録が回り、背部両脇に彫刻をはめ込んだ脇障子立っている。柱上部破風棰木等金箔飾り金具を取り付け、内陣扉廻りに透彫彫刻をはめ込み、内部の彩色も当初のものをよく残した桃山時代の特色をもち、建立年次の確実な豪壮優雅な建造物である。
慶長十七年(1612)以来富士山二合目(旧登山道道沿い)にあり、積雪風雨・霧等厳しい気象条件のなかでたびたび修理が行われ、保存に万全を期してきたが、昭和三十九年スバルラインの出現により旧登山道が荒廃を極めると共に、余りにも厳しい自然条件の中にあり、永久保存が至難であるため昭和四十八年現在地に移築復元し、昭和四十九年五月完工、重要文化財の指定を受け現在に至っている。
なお、冨士御室浅間神社は武田家の崇敬厚く、信虎公・信玄公・勝頼公の文書を始め、「勝山記」等県指定の文書が数多くあり、歴史民族資料館に展示されている。
社内地図
例祭
春の例大祭 4月25日
春のお祭りで春季大祭、はな祭といわれています。4月29日は古式流鏑馬祭が行われることでも知られています。
流鏑馬(甲斐の勝山やぶさめ祭り)4月29日
天慶三年(940年)藤原秀郷が平将門の反乱を鎮定した帰途、戦勝を祝い御礼祭を執行し、流鏑馬を奉納したことに始まります。昭和55年(1980年)に84年ぶりに再開されました。
武田流流鏑馬神事は、出陣式から始まり、かぶら矢奉献などの儀式の後、太鼓の合図で次々に砂煙を上げて疾走する馬から矢を射る戦国絵巻さながらの流麗さです。
秋の例大祭 9月9日
天狗に扮した村の若者や、かなぼう、さむらい、弓持、れい人等が供奉する、神霊が宿った神体などを神輿に移す「神輿渡御(みこしとぎょ)」などの祭事が行われます。
Gallery
甲斐の勝山やぶさめ祭り(4月29日)
秋の例大祭(9月9日)
桜
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富士河口湖町勝山3951